生きる意味がわからないと悩む高校〜大学生時代の僕へ|意味なんてないと割り切っちゃえばいいよ

高校生から大学2年生くらいまでの僕は基本的に「生きる意味がわからない…」みたいなことを考えながら生きていました。

表面上は明るくて友達も多かったように思うし、全然そんな雰囲気は出していないんだけど、でも根底にはずっとそんな思いを抱きながら日常を過ごしている。子供から大人になる過程の多感な時期ですから、きっと当時の僕みたいだった人も多いかもしれません。

さすがに受験勉強の時など「やらなきゃヤバい」という時は、「何のために生きるのか…」など答えのない問いに悶々とする気持ちをシャットダウンして、ただひたすらに目の前のタスクに打ち込むようにしていましたが、根っこの部分ではずっと悩んでいたんでしょう。

そういう尻に火がついたような時じゃないと何かに対して本気で打ち込むことができなかったし、ずっとどこか冷めたようなスタンスで自分の人生と向き合ってきました。

朝ゆっくり目が覚めて、カーテンも開けずにイヤホンでNirvanaのSmells Like Tenn Spiritか、KyteのBounderies、あるいはDeath Cab for Cutie全般を布団にくるまりながら聴く。

それで大学に行ったら、そんな自分の闇を完全に見せないようにしながら、ただただ友達と騒ぎまくる。

そういう二面性を持ちながら生きてきた僕も、もうすっかり大人になって、自分で起業とかしたりなんかして自立して生きていけるようになりました。

そして色んな若い世代の子たちの悩みとかを聞く機会も増えたんですけど、どうやら当時の僕と同じように「生きる意味がわからなくて…」みたいなことに悩んで深く傷ついている人がすごく多いという…。

それで、自分なりにずっと考えてきて出した結論としての「こういう風に考えれば楽に生きれるんじゃないかな」っていうアイデアをお伝えするので、備忘録的にブログ記事として残しておきたいと思います。

目次

生物は遺伝子の乗り物に過ぎない

リチャード・ドーキンスという人が書いた『利己的な遺伝子』という本の中で「生物は遺伝子を乗り継ぐ乗り物」であるという考え方が紹介されています。(僕はマンガ『宇宙兄弟』で知りました)

結局のところ、人が深く傷ついたり悩んだりするのって、自我が強すぎるからだと思うんですよね。自意識や自己承認欲求が強すぎるから、些細なことで傷ついて悩まなくていいことにいちいち悩んでしまう。

でも、人(=自分自身)ってそもそも遺伝子を運ぶ乗り物にすぎないのだとしたら、なんか心がスッと楽になりませんかね。「あ、自分は単なる乗り物でしかないわけだから、あれこれ自分に対して負荷をかけすぎる必要なんてないんじゃないかな」って。

「所詮、乗り物に過ぎない」わけですけど、その「所詮」っていう響きって迷える人を救ってくれると思うんですよね。気軽に生きてもいいんだぜって感じで。

それに人が生存している目的が「遺伝子を運ぶ」ことだとしたら、ただ生きているだけでお役目を全うしていることになりますよね。

周りと比べてどうだとか自分の生きてる意味はなんだとか、あれこれ考えだすとキリがないですけど、生きてるただそれだけでいいって考えられるとすごい楽になれると思うんです。

ただ、そうは言っても、何の根拠もないままに「生きてるだけでいいじゃん」なんて言われても、あんまりピンとこないかもしれません。でも大丈夫。リチャード・ドーキンスっていうすごい学者のお墨付きですから。そう考えると、全能感というか無敵感というか、やたらと安心できたりするもんです。

自分を宇宙の構成員だと考えてみると…

先ほども書きましたが、人は自分のことを強く意識しすぎると疲れてしまうし、本来悩まなくてもいいことに悩んでしまうんじゃないかと僕は考えています。

そもそも、自分自身を宇宙の生命体を構成する要素の一つでしかないと考えると、ほんとにちっぽけな存在なんですよね。

それに宇宙って約138億年前にビッグバンという現象で突然誕生し、ビッグバン以前は「完全なる無」だったというのが定説になっています。

専門分野ではないので詳しくはわかりませんが、何もないところから突然ビッグバンが起きて宇宙が生まれたなら、突然何らかの現象が起きて「無」の状態に戻るっていう可能性も無きにしも非ずですよね…?(もし無知を露呈してるだけならごめんなさい)

そう考えると、やっぱり僕たちの存在って非力なものだなぁと思いますし、そもそも「無」の状態から突然できたって、宇宙の存在そのものにも大した意味なんかないんじゃないかと思えてしまうわけです。

そんな感じで、一歩引いた目線で自分たちの存在を捉えてみると、そもそも人の一生に意味なんか求めすぎても疲れてしまうだけなんじゃないかと感じられます。

たとえ仕事で失敗しても、上司から否定的な言葉を言われても、宇宙規模で考えれば、そこに大して意味もないというか…。それくらいに考えた方が気も楽になるのではないかなと。

生きる意味を考えられる状態って幸せなんじゃない?

そもそも、いつから人は「生きる意味」なんてものを考えるようになったのかなと思います。

例えば、紀元前5世紀頃に生きた、仏教の開祖として知られる釈迦。彼の人生論は今に生きる人たちにも大きな影響を与えています。

ただ、それよりも遥か昔の狩猟生活をしていた時代はどうなんだという話になるし、例えば平安時代とか戦国時代なんかでも高レイヤー層の人たちはそういうことを考える「余裕」があったでしょうが、その日その日を生きていくのに必死な低レイヤー層はどうだったのでしょうか。

僕はその時代を知らないし、今日明日を生きれるかわからないという状態になったことがないので、その辺りは映画や本や想像で補うしかありません。

ただ、そう考えると、生きていくのに余裕がないと「生きる意味に悩む」という状態にはならないんじゃないのかと感じられるのは確かです。

少なくとも、今の日本に普通に生まれてこれた時点で、かなり余裕のある生活はできているはずですし、実際の幸福度がどうであれ、生きていくことのハードルはかなり低い世の中だと言われています。

なので「生きる意味がわからない」と悩めている時点で、相当に恵まれた状態なんじゃないかなと僕は思います。

生きてる理由なんてない。だけど死にたくもない

僕が高校生の時に影響を受けまくったのが、Mr.Childrenの『未来』という曲の歌詞です。

生きてる理由なんてない

だけど死にたくもない

こうして今日をやり過ごしてる

出典:『未来』/ Mr.Children(作詞:桜井和寿)

僕が高校1年生のときにポカリスウェットのCMソングとしても話題になったこの曲は、ファンの間で「鬱ソング」として扱われることも多く、この歌詞がすごく好きだと明かしたら周りの友達からすごく心配されたことを今でも覚えています。

でも、僕はこの歌詞にとても大きな希望を感じたんです。生きる意味とか理由なんてないけど、別に死ぬ理由もない。だったら、放っておいてもいつか人は死ぬわけだし、とりあえず今を大切にして生きていくのがいいんじゃないかなと。

周りの目を気にして縮こまっていても、自分のやりたいようにやって楽しく生きていても平等に時間は流れるなら、どうせなら楽しんだ方がいいと僕は思うわけです。

生きる意味なんて自分で自由に決めていい

生きる意味なんてものは、誰かが与えてくれるわけでも、探せばどこかに見つかるようなものでもないのだと思います。

そんなものはどこにも存在しないし、わからなくて当然だから、僕たちで自由に考えて自由に判断すればいいのだと。

そういう捉え方に対して、少なくとも僕は「救い」のようなものを感じます。

生まれてきて生きていくだけで生物的な役割や意味はちゃんと果たせているのだから、あとは自分が好き勝手に楽しく生きていけばいいのではないでしょうか。

高校生とか大学生の時はとにかく「何のために人は生きるのか」なんてことを色々と考えてたけど、人生ってなんだかんだで結構長いものです。

そんなに早く答えを出そうとしなくても、目の前のリアルをちゃんと生きていれば、いつか何となく「自分はこのために生きてきたのか」と自分なりに納得できるようになるものなんじゃないでしょうか。

だから、生きる意味がわからなくなったって、そんなこと大した問題じゃないし、いちいち悲観する必要もない。

生きる意味なんてないんだから、そう割り切って、好きなように生きていけばいいと思うんです。

最後に

この世の中には「生きとし生けるものはいつか死ぬ」というルールがありますが、その中でどうやって生きていくかは本当に自由だと思います。

そもそも「生きる意味」なんてものはどこにもなくて、結局は自分で勝手に解釈するしかないわけだから、できるだけ前向きで楽しい解釈ができるようになれれば最高なんじゃないでしょうか。

だけど、長い人生だから「生きる意味って何だろう」と本気で悩んで、Nirvanaとかクリープハイプとかに没頭する期間ってあってもいいと思うんです。(僕が高校生の時はクリープハイプいなかったけど)

そういう闇…とまではいかなくても、自分と向き合う時間を経験した上で、「そんなこと考えても仕方ないんだな」と割り切れるようになれば、本当に人は強くなれる。だから、ずっと答えのない問いに悩んでいた、高校生〜大学生くらいまでの僕に心からありがとうと伝えたいです。

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